ひつじいぬくん広島60年を思う。

今日朝起きたらテレビで広島に原爆が落ちた日から60年たつのだと言う。

ちょうどテレビを見たとき黙祷の時間だったらしく

僕もベットから飛び起きて一緒に黙祷をした。

ぶっちゃけ僕も広島に原爆が落ちた日は覚えてなかった。

でも言われれば思い出せるかもってくらいだ。

だいたい学校の授業でもそこをやったかやらないかのところで

終わってしまう。

そして修学旅行といえば広島の原爆ドームに行ったことは

憶えているけど、その内容については

とんと知らない。

だいたいこんなことを

ビバ戦争なんて言ってる僕が書くことは変に思われるかもしれないけど

なにも僕だって戦争が起こればいいなんて思ってないです、

でも戦争によって僕等の生活があるんだってことも考えなくちゃいけない。

だってそうだろ。

僕等のこの生活は誰かの犠牲の上になりたってるんだ。

搾取される奴や、環境汚染とか、

どっかのエゴや利益のために戦ってるやつとか

そんな素晴らしい人々の上に僕等の消費生活はなりたってるんだ。

それでそれが嫌だっていったり

そんな生活このままじゃできなくなるぞってとき

僕等はお金で黙らせたり、適当な理由つけて戦争して反対派を潰したり

してるんだ。

核問題を考える上で、みんなも大好きバンド8で考えればいい。

あの表面つらだけの薄っぺらな大義名分で

どっかのバカがノーベル賞の候補になれるんだ。

それで誰が救われたんだ?それでどう変わるんだ?

たとえ今その名目を成し遂げたとしよう。

でもその後また僕等は搾取するんだ。

資本主義と言う名の弱肉強食の社会で

強者は強者のままなんだ。

ここまで圧倒的に差がついてしまえば、強者はその座を譲ることなく

そう、たとえ世の中どんなに変わっても

強者はいつだって強者のままだ。

じゃぁ、なんだ?やるだけでも意味があったのか?

それで関心を持ったことが大切なんだとでも言うのか?

確かに関心を持つことは大切だ。

でもその関心でどれだけ救えるんだ?その関心は何を救うんだ?

そういえば某雑誌でM.I.Aのインタビューの中に

某雑誌って言うと問題あるかもしれないからちゃんと言っとくと
rockin'on7月号。

「ボノとスティング、あの人達の子供の救い方っていうのは普通の意味とは違うのよ。
 わかる?成功したぜ、邸宅も手に入れた、ヨガもマスターしたし、
 さて子供でも救ってみるかっていう、そういうもんなのよ(笑)」

M.I.Aの評価はどうあれ

僕等の感覚もボノやスティングとどう違うんだ?

生活のレベルの差はあれ、世界的にみて裕福な生活をしてる僕等が

どれだけ、この言葉を否定できるというんだ?

僕にはできない。

いや、できないというより自分の思いを貫けるだけの力を持っていない。

だから僕はそれを「できない」とよぶんだ。

核だって同じだ。

ボノとスティングをアメリカや先進諸国に変えればいい。

確かに上から変わらなきゃ変わらないのかもしれない。

でも、それで変わるのか?変わるのか?

もっと別の・・・これは僕が言うことじゃないね。

それは1人1人が考えなきゃいけないことだしね。

さて、話しがだいぶずれたので元に戻すけど

先日テレビで広島の核のことについてアメリカの学生が授業を受けている

という番組がやっていたが

その中で

20万人で済んだんだから、とか戦争を早く終わらせたんだからとか

言ってたが

そんなもんなのかなぁ。世界ではそんなものなんでしょうかねぇ?

背負っていた子供は死んだけど生きていた母親が

ずっと持ってたその子供のパンツだとか

家族全員を失って一人生き残った人とか

そんな話しがテレビで流れていた。

忘れちゃいけないんだ。

僕等はそれを知らないけど、忘れちゃいけないんだ。

きっと、ただの僕等にできるもっとも簡単な関心だと思うから。

何もできない自分に乾杯。変えられない、変わらない世界に乾杯。